AI関連の発明を扱っていると、AIそのものの技術だけでなく、「人がAIをどう使うか」を考える場面が増えます。
私自身も、生成AIを日常的に使うようになりました。
情報を整理する。
自分とは違う視点を出させる。
考えていることに反論させる。
複数の案を比較する。
一人で扱うには量の多い情報を、いったん構造化してもらう。
こうした使い方をすると、以前より広い範囲を、短い時間で検討できるようになります。
これはかなり便利です。
ただ、使っているうちに、一つ気になることが出てきました。
AIを使ってできることが増えたことと、自分自身ができるようになったことは、同じなのだろうか。
ということです。
将星国際特許事務所、所長。AI、IT、ソフトウェア、ビジネスモデル、ネットワーク分野の特許を専門とする。データベーススペシャリスト等の資格を持ち、技術内容の整理から特許出願・権利化まで幅広く支援している。講演活動も行っている。
目次
「AIを使えばできる」と「自分でできる」は分けた方がよい
例えば、AIを使えば、それまで書けなかったプログラムを書けることがあります。
AIの助けを借りれば、かなり複雑な資料を整理できることもあります。
文章も、分析も、調査も、以前より速く進められるようになりました。
ここでは、「人間+AI」という組み合わせの遂行能力は明らかに上がっています。
ただ、その成果を見て、
「自分の能力が、その分だけ高くなった」
と考えてよいかというと、私は少し違うように感じています。
AIを外したあとにも、同じことができるとは限りません。
もっと重要なのは、AIが出したものについて、
なぜそうなるのか。
前提は正しいのか。
抜けている条件はないか。
別の説明は成立しないか。
自分は本当にこの結論を採用するのか。
と考えられるかどうかです。
AIによって成果を出せることと、その成果を理解し、検証し、自分で判断できること。
この二つは、少なくとも分けて見た方がよさそうです。
弁理士の仕事では、ここが特に気になる
特許実務では、文章が整っていること自体には、それほど大きな意味はありません。
AI関連の発明であれば、例えば、
何を入力しているのか。
その入力をどのように処理しているのか。
なぜその処理をする必要があるのか。
出力された結果を、その後どう使うのか。
学習時と推論時では何が違うのか。
「自己学習する」と言うとき、実際にはどこまでが自動なのか。
そうした関係を一つずつ確認していきます。
説明がきれいに書かれていても、その間の因果がつながっていないことがあります。
逆に、最初の説明はかなり粗くても、話を聞いていくと技術上の工夫が見えてくることもあります。
そのため、弁理士の仕事では、出てきた文章を整えるだけでは足りません。
その説明を自分で理解し、
「ここは本当にそうなのか」
「この一段が抜けていないか」
「今回の技術上の特徴は、本当にここなのか」
と確認する必要があります。
AIが非常にもっともらしい文章を作れるようになるほど、この部分はむしろ重要になるように感じます。
AIに任せたいことと、自分に残したいこと
だからといって、AIにあまり仕事を任せない方がよい、とは考えていません。
むしろ逆です。
大量の情報を整理する。
複数の案を出す。
比較材料を増やす。
見落としている可能性を挙げてもらう。
反対意見を出してもらう。
こうした処理は、かなりAIに任せられます。
人間が全部を一から処理するより、その方がよい場面も多いでしょう。
ただ、その先にある、
何を問題として見るのか。
どの情報を信用するのか。
どこに違和感を持つのか。
どの条件が結論を変えるのか。
最終的にどの説明を採用するのか。
という部分まで、同じように外へ渡してよいのか。
ここは、仕事によってかなり違うはずです。
旅行の日程を組むことと、専門家として依頼者の発明を整理することでは、AIに任せたときに失って困るものが違います。
すべての能力を自分の中に残しておく必要はありません。
一方で、失うと仕事そのものが成立しにくくなる能力もあります。
私の場合は、その境界を意識してAIを使う必要があると考えるようになりました。
最後の判断だけ人間がすればよいのか
ここでもう一つ気になることがあります。
では、
「最後だけ人間が判断すればよい」
のでしょうか。
これも、それほど単純ではないと思います。
例えば、論点を見つけるところは常にAI。
資料を探すところもAI。
比較するところもAI。
文章を組み立てるところもAI。
その状態で最後に「これでよい」とだけ人間が判断しているとします。
形式上は、最終判断は人間がしています。
ただ、その判断を支えている途中の能力をほとんど使わなくなれば、やがてその判断自体が難しくなる可能性があります。
自分で論点を見つけられなければ、AIが重要な論点を落としていても気づきにくい。
自分で資料を読めなければ、AIの要約が妥当か判断しにくい。
技術の因果を自分で追えなければ、整った説明の中にある飛躍も見つけにくい。
そう考えると、問題は、
「最後に誰がボタンを押すか」
だけではありません。
仕事の途中にある、
理解する。
疑う。
比較する。
検証する。
判断する。
という活動を、人間とAIとの間でどう配分するか。
その設計の方が重要なのだと思います。
AIで成果が上がっても、人間側の変化は一つではない
ここまで考えていて、私は同じAIを使っていても、人間側には違う方向の変化が起こり得るのではないかと思うようになりました。
AIを使うことで、自分一人では見られなかった範囲まで検討できるようになる。
AIから別の見方を出してもらい、それを材料に自分で考える。
自分の仮説に反論させ、もう一度組み直す。
この場合、AIは自分の思考範囲を広げる方向に働きます。
一方で、
AIが出した答えをそのまま採用する。
理由を十分に確認しない。
一次情報へ戻らない。
自分でも理解しないまま成果物だけを使う。
という使い方もできます。
こちらも短期的には、かなり高い成果が出るかもしれません。
むしろ、細かく検証しない分だけ速いこともあります。
外から成果物だけを見ると、この二つは区別しにくい。
でも、長く続けたとき、人間側に残るものは同じではないかもしれません。
私は、この二つの方向の違いを意識するために、自分の中では「AI認知分岐」と呼んでいます。
分岐を決めるのは、AIを使う量ではない
ここで重要なのは、
AIをたくさん使えば危ない。
AIをあまり使わなければ安全。
という話ではありません。
私自身、AIはもっと使ってよいと思っています。
問題は、使用量ではなく、何を任せているかです。
情報を探すことを任せる。
整理を任せる。
候補を作ることを任せる。
反論を作ることを任せる。
評価まで任せる。
何を重要と考えるかまで任せる。
最後にどれを採用するかまで任せる。
同じ「AIを使う」でも、任せているものはかなり違います。
しかも、どこまで任せてよいかは、仕事によって変わります。
定型的な処理なら、大きく任せてもよいかもしれません。
一方で、専門家として自分が責任を持って説明しなければならないところは、自分の理解や判断能力を残しておく必要があります。
私にとってAI活用を考えるというのは、最近では、
「どうすればAIをもっと使えるか」
だけではなく、
「この仕事のうち、何をAIへ渡し、何を自分側に残すか」
を考えることでもあります。
AI時代の専門家に必要なもの
AIがさらに便利になれば、専門家の仕事も変わっていくと思います。
調査する。
整理する。
文章を作る。
候補を出す。
そうした仕事のかなりの部分は、これまでよりAIへ移っていくでしょう。
だからといって、専門家の役割がなくなる、と単純には考えていません。
ただ、必要とされる能力の重心は変わるかもしれません。
AIより速く文章を書くことではなく、
AIが作った説明のどこを見るべきか分かること。
情報をたくさん知っていることだけではなく、
どの情報を確かめる必要があるか判断できること。
AIが出した選択肢の中から選ぶだけではなく、
そもそも選択肢の立て方が違っていないか考えられること。
そして、AIとは違う結論を選ぶ必要があるときに、その理由を自分の言葉で説明できること。
そういう能力の意味は、むしろ大きくなるように思います。
AIを使ったあと、自分に何が残ったか
私はAIを使うとき、ときどき一つだけ振り返るようにしています。
今回、AIを使ったことで何ができたか。
ではなく、
AIを使ったあと、自分には何が残ったか。
新しく理解できたことがあるのか。
自分では気づかなかった視点が増えたのか。
次は自分でも判断できそうなのか。
それとも、成果物だけが手元に残り、自分はほとんど理解していないのか。
毎回すべてを自分で理解する必要はありません。
AIへ渡してよい仕事もあります。
ただ、専門家として自分に残しておきたい能力まで一緒に渡していないかは、少し意識した方がよい。
今のところ、私はそう考えています。
AIを使うか、使わないか。
そんな二択ではありません。
人間とAIを組み合わせたときに、全体としてどれだけよい仕事ができるか。
そのうえで、どの能力をAIへ任せ、どの能力を人間側に残すのか。
AIが当たり前の道具になるほど、問われるのは「AIを使えるか」よりも、AIとの仕事の分け方を自分で決められるかなのかもしれません。
